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【伊能忠敬】大人になった今だから分かる。50歳を過ぎても学ぶことを諦めないことの凄さ。

大人になった今だから分かる。50歳を過ぎても学ぶことを諦めなかった伊能忠敬の凄さ。

日本を歩いて測量した伊能忠敬。

すごい人だということは、なんとなく分かる・・・けど、

自分の子どもにきちんと伝えられないので、調べてみました。

そして、勢いで伊能忠敬の資料館も行ってきました(千葉県佐原市)

私も小学校のときに伊能忠敬のことを習っているはずなんですが

まったく記憶にないです。

そのおかげか?

今回、めちゃめちゃ新鮮な気持ちで伊能忠敬の人生に感動することができました。

まずは伊能忠敬の人生を簡単にまとめます。

目次

幼少期:好奇心旺盛で算学好きの少年だった。

ざっくり伊能忠敬の人生を図解にするとこんな感じです☟

※図の年齢は数え年で表記しています。満年齢は➖1歳してください。

伊能忠敬 歴史 幼少期
参考:伊能忠敬 歴史

7歳(6歳)で母親を亡くしてから11歳(10歳)母親の実家で、

叔父(母親の弟)の家族と過ごすという寂しい時期を乗り越えました。

そんな寂しい時期でも、寺子屋でたくさん勉強をする子供だったようです。

算学が得意だったため、幼いながらも商売をしている叔父にも頼りにされていたほど。

商才もあり、叔父の商売の手伝いをしながら過ごします。

伊能忠敬 幼少期

11歳(10歳)時に父親が迎えにきて、父親の実家へ引っ越しました。

その後も、寺子屋で熱心に勉強し、18歳(17歳)時に縁談がきます。

相手は佐原で一二を争う名家の娘。

しかも、4つ年上の子持ち。

家業を繁栄させるため、忠敬に婿養子の話が来たのです。

現代では、なかなか考えられないことですよね。

自分の息子が18歳になるまでに、

結婚相手の家業を継げるまでの精神年齢に育てられるかって言ったら

全然自信ないです。ははは。

昔の人はすごいですね。

佐原では家業に尽くし、信頼を集めた生活

伊能忠敬 歴史2
参考:伊能忠敬 歴史

忠敬が婿養子に入った伊能家には、本がたくさんありました。

そのため、たくさんの本を読むことができ、この頃に天文学暦に興味を持ち始めます。

しかし、当時は家業と関係のない学問をすることは

道楽と一緒とされ、思いっきり勉強することは出来ませんでした。

一方で、忠敬は自分の商才を生かして、どんどん伊能家を繁栄させ、

周囲からの信頼も集めていきました。

しかし、1782年から1788年まで続いた天明の飢饉に直面します。

1782年から東北地方を中心として食料不足がじわじわと広がっていた中

1783年 忠敬が39歳(38歳)のとき。

浅間山の噴火が起こります。

この噴火は5月から8月まで続く大規模な噴火でした。

群馬県の浅間山から佐原市は直線距離で220kmくらいです。

佐原から浅間山の距離スクショ
Google map 筆者スクショ

火山灰のせいで作物は育たず、

噴火の堆積物で利根川がせき止められて決壊を起こすという天災の連鎖。

佐原村も食料不足に悩まされました。

飢餓に苦しむ人々

全国的に餓死する人が続出する中

村人あってこその佐原村という考えのもと

忠敬は自分の持っている作物や米を村人に分け与えました。

多くの村人を救った忠敬でしたが、この天明飢饉の間に妻を病気で亡くします。

忠敬は飢饉を脱した後も、

家業を繁栄させ、村人に頼りにされていました。

そんな忠敬を、周囲の人はなかなか隠居させてくれません。

やっと家業を息子に任せて江戸に出たのは51歳の時。

50代から第二の人生。暦学と測量に尽くした生活

江戸の街並み 上京

現代では、

50代に入って東京に上京しました!っていう人、なかなかいないですよね。

でも忠敬はやりたかった暦学を学ぶため

19歳年下の天文学者 高橋至時の弟子になります。

学びを始めるのに、年齢なんて関係ないんです。

しかし、なんで忠敬が弟子になれたかっていうと

佐原時代に名主として、佐原村の測量したり

旅先で自らコツコツと測量をしていた経験があったからです。

好きだから学ばせてください。というもんじゃない。

それまでの自分の実績と準備が叶えた弟子入りでした。

伊能忠敬 勉強

果たして、自分が忠敬と同じように長年準備できるか?と言われたら

そこまで情熱を持ち続けられるか自信ないです。

家業が成功して、安定した生活を得ても

新しい挑戦を続けたところが、本当に胸熱ですよね。

しかも、江戸時代の平均寿命は32歳〜44歳と言われていた時代に。

(※これは、乳幼児死亡率が高かったことから引き下げられているという理由もある。)

私が子どもの時、

「伊能忠敬は50代から日本を歩いて測量しました。」って聞いても

ピンと来なかったけど

35歳になった今だから分かリます。

伊能忠敬の凄さ。

測量の旗と象限儀
筆者撮影:伊能忠敬旧宅にて

測量の手順とかも見てみたけど

正直、めんどくさ過ぎて自分には出来ません。

途中で投げ出しそう。

「やっぱり、やめま〜す!」って言うと思う笑

江戸時代に

自分の探究心に正直になって

自分の思う道を進むということが

どれほど大変か。

それを成し遂げた人生。

かっこいいし、見習いたいです。

測量の最初の目的は地球の大きさを知りたかったから

測量の最初の目的は地球の大きさを知りたかったから

高橋至時の元で暦学、天文学などを熱心に学び、

天体観測も自分でするほど、寝る間を惜しんで学んでいた忠敬に転機が訪れるのは

56歳(55歳)時。

その頃、暦学者の間では、緯度1度の長さが論争になっていました。

地球は球体なので、地球の大きさを知るには、

緯度1度の長さが分かればそれを360倍すれば地球の大きさが出せるのです。

緯度1度の長さが知りたい。

しかし、緯度1度の長さを出すには、江戸(東京)から蝦夷地(北海道)までの距離を測量しないと正確な値は出せなかったのです。

当時、幕府の許可なしに測量を勝手にすることは禁じられていました。

ちょうどその時、蝦夷地にはロシアやイギリスの外国勢力が迫っていました。

忠敬の師匠の高橋至時は、

防衛のためにも蝦夷地の地図作りが必要と幕府に説明し、やっと測量の許可が出ます。

そうして、第一次測量は江戸から蝦夷地の別海まで行われました。

無事に緯度1度分の長さも測れましたが、幕府よりその後も地図作りの命令が出されます。

そうして日本地図を完成させるための測量が始まるのです。

孫と測量している忠敬

しかし、忠敬もだんだんと高齢になり、第9次測量は参加できませんでした。

第10次測量は江戸内で行われ、忠敬はよく孫を連れて測量していたとのこと。

そして1818年 地図を完成させることなく74歳(73歳)でこの世を去りました。

伊能忠敬の死後に、弟子たちが完成させた日本地図

伊能忠敬の地図にまつわる出来事
参考図書:伊能忠敬 歴史

忠敬の死は公表にされないまま、

弟子たちが3年後に大日本沿海輿地全図を完成させました。

幕府に提出された地図は、その頃の将軍 徳川家斉も驚くほどの精度だったとのこと。

1828年にはシーボルトが日本地図(伊能図)を国外に持ち出そうとして、国外追放になりました。

日本だけでなく、海外の人にも衝撃を与えるほどの精度で測量したのはすごいですよね。

伊能忠敬記念館には、伊能忠敬が測量し作成された伊能図が展示されています。

ぜひ、千葉県佐原市に実物を見に行ってみてください。

忠敬の死後に奔走した弟子たちについて、描かれている

映画「大河への道」もおすすめです。

中井貴一さん主演のこの映画、豪華キャストで伊能忠敬の地図完成までの道のりを描いています。

伊能忠敬記念館がある佐原市が舞台になっていて、

行く前に見るとより佐原が楽しめると思います!

原作はあの笑点でお馴染みの立川志の輔さん。

あらすじはこちら⇩

千葉県香取市。市役所の総務課に勤める池本保治(中井貴⼀)は、市の観光振興策を検討する会議で意見を求められ、苦し紛れに⼤河ドラマ制作を提案。思いがけずそれが通り、郷土の偉人、伊能忠敬を主人公とする大河ドラマの企画が立ち上がってしまう。ところが企画を進めるうちに、⽇本地図を完成させたのは伊能忠敬ではなかった!?彼は地図完成の3年前に亡くなっていた!
という驚きの事実が明らかに……。江戸と令和、2つの時代を舞台に明かされていく⽇本初の全国地図誕生秘話。
そこには地図を完成させるため、伊能忠敬の弟子たちが命を懸けて取り組んだとんでもない隠密作戦があった――。

公式サイト:大河への道
映画.com
大河への道 : 作品情報 - 映画.com 大河への道の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。落語家・立川志の輔による新作落語「大河への道 伊能忠敬物語」を映画化。主演の中井貴一をはじめ、松...

Amazonプライムなどでも配信されているので、おすすめです。

小学2年生には、まだ早かった 伊能忠敬記念館

伊能忠敬 記念館
筆者撮影:伊能忠敬資料館

今回 千葉県佐原市にある伊能忠敬資料館に行く前に

わたしは小2の息子に

少しでも予習してもらおうと

「今度、伊能忠敬っていう日本を歩いて測量した人の資料館に行くよ。」と伝え、

さりげなく

息子の本棚に図書館から借りてきた

伊能忠敬の歴史漫画を置いておきましたが

子どもの本棚
筆者撮影

結局 読んでませんでした 笑。

まぁ、そんなもんだよね。と思い、

わたしが調べた伊能忠敬のことを短く息子に伝え

いざ、資料館へ。

資料館の入り口に子供用に資料があったので

一緒に見ながら回りました。

この子供用の資料(クイズ形式)がとても良かったです!

子ども向けの資料
筆者撮影

ちょっと小学2年生には難しかったですが

答えは資料館の展示物を探せば見つけられるので

一緒に楽しく回ることができました。

資料館の中は1フロアだけで、そんなに広くもないので30分くらいで回れます。

年中の娘は退屈してしまい、ソファでわたしの両親と休んでいましたが

小2の息子はクイズを解いて満足そうでした 笑

わたしも息子と娘が大きくなった時に

伊能忠敬について話ができるようになったことは

かなりの成果です。

親が知っていることが増えると

子どもとの会話の内容に幅が広がりますよね。

伊能忠敬 家
筆者撮影:伊能忠敬旧宅

記念館から歩いてすぐの伊能忠敬が住んでいた家は無料で見学できるので

散策の途中に訪れてみてください。

忠敬が長年過ごした街並み 小江戸佐原観光もおすすめ

佐原の街並み
筆者撮影:佐原の街並み

佐原はかつて水運の町として栄えました。

人口が多い江戸へお米などの食料などを運ぶため、川を利用していたのです。

そのために栄えた町が、関東には点在しています。

その中でも千葉県の香取市(佐原市)、埼玉県の川越市、栃木県の栃木市が有名です。

江戸の情緒が残り、町家レストランやカフェがたくさんあります。

今回は茶屋花冠上川岸別邸さんに寄ってお茶しました。

佐原のカフェ
筆者撮影:茶屋花冠上川岸別邸

古民家を改装してあり、雰囲気最高でした。

子どももフルーツたっぷりのプリンアラモードやクリームソーダなどに大喜び。

他にも素敵なお店がたくさんあるので、散策するだけでも楽しいです。

もう1つおすすめなのが

小江戸さわら舟めぐりです。

https://www.asoview.com/base/149746/
佐原 舟めぐり
筆者撮影:舟巡り

佐原の街並みを舟に乗りながら眺められます。

ガイドのおじさまが色々と説明してくれるので、楽しみながら巡ることができるのでおすすめです。

この日はちょうど結婚式をしていて花嫁さんが船に乗っているのを見ることができました。

佐原 結婚式 舟
筆者撮影

幸せを分けてもらった気分でした!お幸せに!!

佐原 川
筆者撮影:佐原の街並み

日本の地図作りのために奔走した伊能忠敬。

その人生に想いを馳せながら

美しい佐原のまちを親子で観光するのも良いですよね。

親子で学ぶ旅もいいし

もちろん、大人だけのゆったり旅もおすすめです。

米まり子
親子で経験をより豊かに、考えをより鮮やかに。
小学校2年生と年中の2児のママ35歳
▶自分の考えを話せる子供を育てる
▶知ったかぶりはもうやめる
▶️いくつになっても知ることは楽しい
映えより体験。
せっかく生きているなら、多くの経験と感動を子どもと一緒に体験したい。
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